認知症の方の運転リスクに関する新しいガイドラインが発表された。
それについての記事がMedscapeに載っている。
New Guidelines on Driving Risk in Dementia Presented
新しいガイドラインでは運転リスク増大の発見のために『Clinical Dementia Rating Scale』を推奨している。
臨床においては、MMSEは有用とは言えないようだ(24点以下だからといって運転リスクが増大するということの根拠は乏しい逆に、25点以上だからといって「いってらっしゃい」というのは危ない。)
記事は
『運転の資格を奪うとこいうことは鬱を悪化させる。これは生命を縮めることになるといえるだろう。」ということも書いてある。
運転免許の「剥奪」「禁止」は、その人の社会からの隔絶を意味することになる。
『新しいガイドラインは、10年前に出されたものよりも強制的ではなくて、「運転をやめるように勧める」といった傾向にある。』
テストや検査で結果が悪いからと言って、やみくもに、免許を奪うべきではない。
・・・そういった流れのようだ。
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これと同じことを、もう何年も前に聞いたことがある。
ボバースアプローチの講習を開催した際の、講師のインストラクター(作業療法士)と談話でのことだ。
(・・・そういえば、最近まったく講習会に参加していない)
とても車の運転ができそうにない患者さんを担当しているセラピストからの質問で、運転免許をどうしようかという悩みだった。
つまり、運転できないのだから免許更新を辞めていただこうか・・・という内容。
講師の先生の考えは、先の記事の論調と似ていた。
免許は持っていた方がいいのではないか。運転免許も基本的な社会的な資格であって、それを外部から「やめろやめろ」というのは本人の生きる力を損なう。
運転できないことは本人もよくわかっているだろうし、そうでなかったとしても実感してくるだろう。
本人のキャラクターにもよるけども、むやみに運転免許を”剥奪”することは良くない。
と・・・
闇雲に”禁止”するのではなくてリスクとベネフィットを天秤にかけることが必要だ。
専門家としてその天秤を冷静に科学的にみて、人情で判断だ(笑)。
当時の僕は、「それでも運転したら危ないじゃん」と思っていたけども、いまはわかってきている。
運転免許証を持つことと、運転をすることはイコールではない。
運転するために運転免許証を持つということはあるけども、それは社会的契約に基づく。
免許証の携帯は、やはり、社会とつながることでもあるんだと思う。
考えてみるに、われわれ医療人・・・つまり医師や看護師や相談員やセラピスト(理学療法士、作業療法士、言語聴覚)は、とかく患者さんの自由を奪う行動にでることが多い。
「安全」のためだったりするんだけども、過剰になる場合もしばしばではないか?
歩いてはダメ、いや立ち上がることもダメ。
でも運動しましょう。
何をするにつけても看護師を呼んでください。
あれを食べてはダメ、これを食べてはダメ。
姿勢が悪い
起きましょう、寝ましょう
全部食べてください。排泄してください。
・・・ダメ
・・・ダメ
ダメ!!!!
ヴァーヽ(#゜Д゜)ノ┌┛・;
ヤッテラレッカー!!!
とにかく禁止事項や強制事項が多い。
表現の問題として解決できるものも多々あると思う。
たとえば、立ち上がりが危ない人が歩いておられたら
「危ないでしょ!」
と声をかける前に
「頑張っておられますね」とか、「お手伝いありますか?」
などといった声掛けをキッカケに話を展開し、注意を促せることもあると思う。
日常臨床においても
とかく、何をするにしても「事故」とか「訴訟」とかが頭をよぎる。
いわゆる萎縮医療では、患者さんの満足度を高めることよりも、悪いイベントの発生率を下げることに力が注がれすぎたりする。
もっと活き活きとした医療を目指したいものだ。
そこに「リハビリテーション」というものの源流があると思う。
参考
KAZZ BLOG「リハビリ」関連の記事
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New Guidelines on Driving Risk in Dementia Presented
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