自己について考えるセラピスト

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今日は臨床業務終了後に松江総合医療専門学校で勉強会参加!

毎回面白いコンセプトで開催されているこの勉強会。

今日のテーマは

『発生学 ~分化でつくられる私の文化~』

発生学については、ここ最近触れていなかったので、良い機会にもなった。

勉強会のコンテンツとしては

・人間の発生(胎児の成長)
・皮膚の構造と感覚系の神経機構
・運動制御理論

後輩君の講義ということもあって
(というか、最近は、僕が老人になってきたので、ほとんどの講師が僕より若手だが・・・)

終了15分は主催者からマイクをいただき、コメントさせてもらった。
『個体』について
『運動制御理論』について

―――――――――

今回は、個体について考えよう・・・。

生物は皮膜に覆われて、あたかも周りから分断された「個」として存在していると思われがちだけども、実は(当然ながら)体内と体外との連絡は存在している。

口から肛門は外につながっているし、皮膚はミクロに見てみると穴だらけだ。

口の中と外を区別することは難しい。どこからが中でどこからが外側からなくらいに。

便(ウンコ)は汚いように思えて、さっきまでは体の中にあったりする。肛門から出た瞬間から汚い対象となる。
唾液(ツバ)もそうだ。絶えず口の中にあって、出た瞬間に、なんだか汚いものになる。

便や唾液は、さっきまでは自分であったのに、体から離れた瞬間に汚らしいもになるのだ。

爪もそう。
切った瞬間に、自己から離れてしまい、全くの別物になってしまう。

ここから少し話を展開してみよう。

爪を切ると、その爪は自分ではなくなる。
切られた爪はアチラ側にあって、自分はコチラ側にある。

では、腕を切断した場合は・・・
切られた腕はアチラ側にあって、自分はコチラ側にある。

そうやって、身体を少しづつ切断していく思考実験をしてみる。
身体の正中(半分)まで切った時には、どちらが自分になるんだろう?

自分は、どこまで自分であるのか?

あるいは、足のつま先から少しづつ頭に向かってスライスしてみる。
どこまでが、アチラで、どこまでがコチラだろうか?

脳も分断スライスしよう。
脳は全体で働いているけども、部分が損傷されても自己は保てる。
脳卒中や頭部外傷で一部の脳機能が妨げられても自己は存在する。

自己を決定付ける前頭葉が最後に残る?
思考さえあれば自己は特定されるのだろうか?

では、思考パターンをプログラミングしたコンピュータにも自己の複製は可能か?

―――――――――

さて、
自分であることと自分でないもののはどうやって決められるのか?
(これは、脳がどのように錯覚しているのかということと同義でもあると思うのだが)

自己は自分がコントロールできるもの・制御下にあるものを自分とみなす。
たとえば、目の前のテーブルは、自分ではない(ように振る舞う)
着ている服はあたかも自分のように振る舞う。

テーブルは思考の制御下にはない。服は身にぴったり身体につくっついているため制御下にある。
なので、テーブルは自己ではなくて、着ている服はほぼ自己となる。

着ている服も詳細を見ると、自分ではない(ように振る舞う)。ボタンやチャックなどは、操作しないと動かないのだ。

道具は自己のように振る舞う。
棒やスプーンなどは自己の制御下にあるので、自分のように振る舞う。
(テーブルに置いた瞬間に、自分ではなくなるのだが)

サルに道具を使わせた研究があるが、この場合、サルは道具を使ったその分の脳領域を広げることが結果として得られている。

道具・・・
自分の身体も、このようにある種の道具としてみなすことができる。

腕や足といった身体は自己の制御下にある。
ので自己と言える。
切った爪や足は制御下にないので自己ではない(ように振る舞う)。

病気の人や怪我を負った人たちが、自分の身体を制御できなくなる(しにくくなる)
そうすると、その身体は、あたかも自己ではなくなる。

逆に下肢を切断をした人が義足をつける場合。
練習を重ね、義足を使いこなせるようになった状態では、その義足は自己になる(ように振る舞う)。

僕たちセラピストは、患者さんにとっての自己の身体が、自己の身体たらしめるべく働かなければならない。

あるいは、代償手段として自己を拡張するマネジメント(道具を使うことや生活環境を整えること)をしなければならない。

話はダラダラと長くなったが、そういうことが、自己に対して思っていることだ。

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