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二元論

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先日、職場の言語聴覚士と話をしていた。

今読んでいる、バナナ・レディの著者は、WAB(ウェスタン失語症総合評価)の開発者でもあるという話から。
(残念ながら、いまウチの言語の評価バッテリーは「SLTA」らしいが・・・)

バナナ・レディ―前頭側頭型認知症をめぐる19のエピソードアンドリュー カーティス医学書院このアイテムの詳細を見る

んで、その話から飛躍して・・・
そうそう、「最近、言語に興味があるんですか?」てな質問から、神経心理学の話になって、やはり、昔の神経心理学者は素晴らしいという話になって、結局は、僕が心脳二元論の可能性を捨てきれずにいるんだという話に至ったんだ。

心脳二元論
心と脳は同一かどうかという議論がある。
脳の活動の結果(つまり脳の機能)が「心」であるとみなすか、否か。
二元論は「心」と「脳」は別に存在するという考え方ただ(ざっくりと)。

んで、二元論の立場から・・・

例えば、何かをする時には、脳のある部分が働く。
あるいは、何かを考えたりした時にも、脳のある部分が働く。

しかし、その部分を働かせているのはどこだろう?

もちろん外部刺激(感覚系からの入力)だけでは、説明がつかない。
人間は、そんな反応するだけのロボットのような存在ではないはずだから。
自然にわき上がるのだろうか?

あるいは、そこに働きかけるもっと高次の(というか外部の)「心」を生むシステムがあるのではないだろうか?

「脳」活動が「心」という現象を惹起するんではなくて、「心」が「脳」活動を惹起するその結果、感覚や記憶などの心理現象が賦活させられ、・・・という具合に、もしかしたら、脳が中継地点である可能性も捨てきれない。

ある宗教には、「脳は記憶(記録)を行わない」という考えもある。
記憶は人の外部に存在していて、脳はそこにアクセスしているのみだと。

脳のある部分を刺激したらなつかしい記憶が沸き起るとかいうのは、脳のその部分が中継であるからだという説明だ。

そして、どのような記憶も詳細に、個人あるいは集団のものとして外部(というか、どこか)に存在している。それは魂と連動しているのだと。

臓器移植後に記憶も移植されたとか、全く関連のない人(前世?)の記憶が残っているとか・・・そんな話もある。

おっと、ここで言い訳!
僕は怪しげな話をしているのではなくて(しているのには間違いないが)、その心脳二元論的なものの可能性を捨てきれずにいるというところね!

そんな単純な理由だけからではないのだけども、心脳二元論にはまだ決着が付けられていない。
当然に宗教的な問題もからむだろう。

けども、有名な生理学者ジョン・C・エックルスだって、最終的には二元論に落ち着いている。
ギブソニアン(アフォーダンス理論の継承者)だって、二元論者とは言えないまでも「脳はそんなことしていない」としているらしいから、否定はしていないだろう。

脳のほとんどが解明されていないと考えていいと思う。
冗長性もある。可塑性もある。


とまぁ、聞く人が聞いたら、「ばからしい」とか「メルヘン野郎」とか言われるかもしれないが、そんなことを考えるのも楽しいではないか?

そんな視点で、生理学や心理学、宗教や社会学そして、行き着く先の僕個人という者を考えても良いではないか。

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参考

wikipedia:ジョン・C・エックルス

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