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僕が癌になったら

8日は夕方から市内の病院で開催される講演会を聞きにいった。

とある大学教授のお話。

■がん患者の精神症状の理解とその対応

そういうテーマであった。

会場がべらぼうに暑いせいもあって、頭がボ~~っとしていたのも要因だとは思うが、つまらない内容だった。

一般論や、統計や、カテゴリーとしてあらわされる、がん患者さんの精神や心理の推移・・・

そういったものに、まったく共感がわかなかった。

少し前には、がん患者さんとその家族をシンポジストにした会に参加したが、この会では個人のストーリーや想いというものが、その個人の言葉によって伝えられる。

決して一般論や、多数の論理や、カテゴリー化されていない、その人の言葉だ。

やはり、こういったものの方が共感しやすい。

もうひとつ
『僕が癌になったら』ということで、
これは時期を考慮しない限りにおいては、確立としては低いわけではないので、考えてみることもある。

「人のお世話になることを苦痛に感じる」

ということが、考慮されるらしい。

人はそもそも、がんであってもなくても、人に迷惑をかけて生きている。
言い方を変えれば、助け合って生きているし、生活している。

お世話をするし、お世話をされながら生きている。

それは、病気であってもなくても違わない。

朝の挨拶、何気ない一声、触れ合うこと・・・
それらすべてが、助け合いであり、お世話のし合いであり、相互の依存であり、自己の同定である。

『なるべく他人に迷惑をかけないように生きていくように心がける』ということは、感謝の証であり、個人が孤立することではない。
『自立』と『孤立』は違う。

おおいに助けられ、多いに感謝する。
おおいに助け、多いに感謝される。
おおいに助けられ、多いに感謝される。
おおいに助け、多いに感謝する。

そう文字を組み合わせてみて病気というものがもつ、独特の残酷性や神秘性に目を向けてみたりもした。

病気は自身でコントロールできない面が多大にあるではないか。

本来その感謝の気持ちが向かうべきところを、病気というものがベクトルを変えさせ、苦痛として自らを不安にさせることになるということなのだろうか・・・

人は個人としては生きていけない。
助け合いながら生きていくことを実感していれば、がんになっても僕は世間に感謝しつつ、世話をうけて生きていくような気がする。

・・・が、がんになれば、やはりこう言ったことはすっとんで、やはり、「迷惑をかけて申し訳ない」という気が起こってくるものなのだろうか・・・

人はそれぞれ違うと思うし、状況によっても違おう。

しかし、今日の講義を聞くと

この僕という人間は、
・・・いや、この僕という人間”も”、こういった経過を辿る可能性が高いのだろうか?

考えてみるに、
そもそも、背景に『病気による苦悩』があるから
『迷惑かけることも苦悩』に思うのだろうか?

まぁ、なってみないと分からないことだ。
どのみち、生きてさえいれば数人に一人は癌になるんだから、そのとき僕が何を思うのか。

癌にかかる前に、他の病気になってしまうかもしれないし。

などなどと、よしなしごとを、想いふけることになった。

そういった意味では
つまらない研修も、充分に役にたったような気もする。

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