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つとめて

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眩しい朝を迎えることの多い日本人は、朝にアサAsaということばを与えた。
喉も口も開けるAに、舌の上いきをすべらせて口元に風を作るSの組み合わせ。
まさに、爽やかな開放感のことばである。
黎明(れいめい)の中や穏やかな陽光の中で一日をはじめる緯度の高い
英国にすむ人たちは、くぐもった発音の「Good morning」で挨拶をし合う。
いたわり合いつつ、徐々に活動を開始するイメージだ。
(黒川伊保子「日本語はなぜ美しいのか」)

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そういえば
野口三千三(ノグチミチゾウ)もコトバをかなり探求していた。
もののありかたや、動き(とくに身体の動き)と深く結びつくことにビックリする。

聖書にも
『初めに言葉(ことば)があった。 言葉は神と共にあった 言葉はかみであった』
(ヨハネによる福音書、新約聖書)
とあるのはご存知だろう。

日本では言霊(ことだま)として、コトバに霊的なものが宿ると考えられている。

認知運動療法は、どう感じたかを言語で表そうとさせる。

ちなみに
むかし講習を受けた時のことなので、今はどうか知らないけど。
少なくとも、その時は「徹底的な言語化」をすすめていた。
僕はここにおいて、認知運動療法が嫌いだった。
が、この一点がセントラルドグマ(中心教義)であるかの様に語られていたので、僕は認知運動療法を根本から理解できていない。
「なぜ、言語化するんですか?」
という問いに、まともに応えられないセラピストだった。
「内言語を外言語に」と答えるから、「なぜ外言語にするのかと聞いているのです」と聞き返したが、無駄な時間をすごすのみだった。
ようするに難しいことらしい(笑)。
きいたセラピストが悪かったかな?
(↑本質をついているかも)

さて
コトバの重要性

コトバにしたとたんに得られるものと、その背後に大きな失われるものがある。

コトバには霊的なものが宿る。

「霊的」というと奇妙に思われるかもしれないが

たとえば「携帯電話」というコトバ(名)。

ほとんどの方が、各々の思う携帯電話を想像するだろう。
「布団」だとか「山」とかを想像せずに「携帯電話」を思うだろう。

それが、霊的なもののいうところだ。

「携帯電話」というコトバに縛られているあなた。
また、「携帯電話」というものは「けいたいでんわ」というコトバに縛られている。

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コレを安倍晴明(アベノセイメイ)が言うところの呪(しゅ)と言ってもいいと思う。


呪とは名ではないかと

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ふと思ってな・・・


山とか 海とか 樹とか 草とか
そういう名も呪のひとつだ
呪とはようするに
ものを縛ることよ
ものの根本的な
在様(ありよう)を縛るというのは

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名だぞ


おぬしは
不用意に本名をあかしホイホイ返事をするから

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呪にかかるのだよ博雅


わかるかな?
言葉にしたとたんに、そのもの(ものごと)は縛られてしまう。
呪をかけられてしまうのだ。

認知運動療法は感覚に縛りをかけているのではないか(笑)?

さておき、
野口三千三はこう語っている。

「いったん一つのコトバで言ってしまうと、それで何かもう枠づけされたような感じになっていやですね」

「名前をつけるってことは、実は認識の働きそのものなんです。認識の作業そのものが名前を付けるってことです。誰かにつけられた名前と、自分でつけた名前とでは大変な違いがある。質が違うんです。」

んで、

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いったんコトバにだされたものは、そのもの本来の意味を失うということで、言語を解体し新たに作られた無意味後言語「ザーウミ(超言語)」というものがある。

言葉は滅びてゆくが、世界は永遠に若い。芸術家は世界を新しく見だしたのであり、アダムのように、すべてのものにその名をあたえている。liliya(リーリヤ「百合の花」)は美しいが、「リーリヤ」なる言葉は手垢にまみれ「汚辱されている」。それゆえに私は百合の花をeuy(エウゥイ)と名づける。こうして原初の清廉がよみがえったのである。

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(クルチョーヌイフ「言葉それ自体の宣言」桑野隆『夢見る権利』第一章より)

『手垢にまみれ「汚辱されている」』とはよく言ったもんだ!
リーリヤが、本当のリーリヤをもはや表現できていないので、一見(一聴?)無意味な音韻をあたえて、彼のなかにある、みごとなもの(僕には百合の花に見えるもの)を表現している。
「エウゥイ」は彼の中にあって、僕の中にはないものだけど、一般的には同一なものだ・・・つまり百合の花。

もう一度野口三千三にもどると
『一億を超えるコトバを使って話しかけたとしても、自分の気持ちがそのまま性格に受け入れてもらえるのは、たった一言だけかもしれないのだ。対話において、「理解とは誤解のことである。誤解以外の理解は事実として存在しない」「感覚とは錯覚のことである。錯覚以外の感覚は事実として存在しない」と覚悟すべきである。』

さてさてさて

なんで、こんなことを考えているかって

冬が到来してきて、雪が降った。

雪が降ると想うのは、中原中也の詩

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そして、清少納言の「枕草子」にでてくる「つとめて」

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冬は、つとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。

この「つとめて」って語はとても好きだ。

最初に紹介したAsaのごとく解釈すると

つ:つめたい感じ。「ツ」の発音が、息が歯を吹き抜けるように冷ややかな感じ。
と:とまって落ち着く感じ。しずけさ。
め:やわらかさ。「エ」の発音の口がつくる、大きくもなく小さくもないような感じ。
て:続く感じ。「そして」の「て」

そんなイメージ。

『冬は、つとめて』

参考文献:

陰陽師 (1) (Jets comics)岡野 玲子,夢枕 獏白泉社このアイテムの詳細を見る

 

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コメント

  1. MasA より:

    僭越ながらあえての批判的意見を
    認知運動療法を好んで勉強している者です∀

    認知運動療法もKazzさんの日記も、共感はするけど理解はできていませんが、もの申します!許して下さい!

    Kazzさんの指摘通り、感覚を言語の枠組みに縛ってしまう危険性については同感です。
    せっかくの主観的な感性・感覚を間違った言語で縛る危険性です。

    ただ、感覚やら情動やら、そうした形無いものに言語で意味付けをすることは学習や訓練のために必要です。

    言語として表出されるまでの「過程」に注目する必要があるのだと思います。

    ヴィゴツキーはじめとした発達の視点から見ても言語の重要性というか、僕達セラピストにとって言語が有効なツールと成り得ることは了解頂けると思います。

    Kazzさんも僕も音楽好きですが、人類は言語よりも先に音楽を持っていたそうです。

    その時代の人々にとって音楽やメロディ、リズムは他者に思いを伝える、あるいは共感するためのツールだったそうです。

    お母さんと子供の間、あるいは患者さんとセラピストの間に、この「共感」が不可欠です。

    発達や学習には「共感」が必要。理解はできなくても可能な限りの共感・接近が必要と思います。

    言語、比喩、擬音語、擬態語、これらを使用して訓練をしていくには、医学知識だけでなく、相手の生き

  2. kazz より:

    re:僭越ながらあえての批判的意見を
    >MasAさん
    おーい!

    最後が、「相手の生き   」・・・で息絶えたみたいになってるよ~(笑)!
    (おそらく続きがあるのだね?)

    とにかく
    コメントありがとう。
    こう言った話しを深めて行きたいのだけども、なかなか周りにいなくて(^_^;)アセ

    ただ
    このコメントの範囲では、まだどの部分に対する批判かが分かりにくいので、続きを期待しているよ。

    認知運動療法に対しては
    ・なぜ、言語化(外言語化)しなければならないのか?
    ・それをしなければどうなのか?
    ・外言語を持たない種における学習についてはどうとらえるか?
    ・外言語化の機能が失われたヒトについてどう考えるか?

    などが、いまの疑問点でおわします。

    ・・・「言語」「学習」の定義付けも難しいね。
    双方で、違う定義をしていたら、まったくアベコベになっちゃうし。

    4649

  3. MasA より:

    Unknown
    失礼しました。
    相手の生き・・のところで寝ました 嘘

    相手の生きてきた文化的・社会的世界を共感できるセラピストでなければならないと、Kazzさんの日記を読んで改めて感じました。

    >・なぜ、言語化(外言語化)しなければならないのか?

    1つは外言語化する脳内過程そのものが、学習であること。
    もう1つは患者とセラピストの二人称の世界を構築するための礎となり得るからと考えます。

    >・それをしなければどうなのか?

    しなかった場合、患者が間違った学習様式(セラピストの外部観察からは評価が困難)を構築しているか否かの判断が困難となります。

    現在の脳卒中後の患者で例えるなら、急性期で間違った学習を進めた結果、痙性が強く出現する→回復期~維持期でその痙性と闘っている、といったリハビリの負の現状を生む要因のひとつとなっていると思います。

    >・外言語を持たない種における学習についてはどうとらえるか?

    これについては、聾唖の方など、先天的な障がいにより、言語をもたない人だと仮定して答えます。例えば言語を持たない子供とお母さんの関係性がヒントになると思います。

    論理的思考や予測が立たない状況で人間は生きていく上で、接近するか回避するかのどちらかの選択を迫られる。
    その場合に共感・信頼のできる相手が導いた道であれば「安全」と判断して行動(接近)する。
    この行動が経験となり内言語を形成することが可能と考えます。

    >・外言語化の機能が失われたヒトについてどう考えるか?

    例として運動性の失語症を上げさせてもらいます。
    内言語は持っているが、他者や社会と共有できる外言語を持っていないという状況。
    社会一般的な言語表出ができなくても、何らかの表出を得られれば、それが外言語の代わりを果たすアクションとなります。

    この問題は失語症に限らず、海外旅行に出かけた場合や、日本国内でも文化や言葉の違う地域に出かけた場合に似ていると思います。

    東方地方に旅に出かけた僕が、現地の人の言葉を全く理解できず、また僕も出雲弁を喋るから相手に意思が伝わらない、という状況になった場合、ジェスチャーや場の状況・文脈などから共感を得られる可能性は十分にあります。

    以上より、リハビリテーションを学習過程と考えた場合(この定義も検討は必要です)、学習過程においては内言語の構築・統合・修正が必要であり、患者の内言語の構築を正しく導くためには、セラピストと患者との間に「共感」が必要。共感するための手段の一つとして外言語を導くことも有効な手段の一つとなり得ると考えます。

    僕がKazzさんの記事に対して批判したいのは、「認知運動療法は外言語化させることを目的としているのではない」ということです。
    言語は訓練の道具のひとつと考えています。

    まぁ、kazzさんはあえて意地悪な書き方していることは分かっていますが 笑
    ここで噛みつかなければ認知運動療法士として生きていけない気がしたもので。

    失礼しました。
    また議論させてください!

  4. kazz より:

    >MasAさん
    ありがとう。
    真っ正面から答えてくれて嬉しいよ。

    批判であっても、下手な賛同や無視よりは気持ちがいいね(笑)。

    では、僭越ながら批判に対する僕の想い/考えを展開するよ。

    >1つは外言語化する脳内過程そのものが、学習であること。
    ↑ここは僕と解釈が違って、内言語の時点で学習は成り立っていると思う。
    だから、わざわざ外言語化を行うことは不必要だと思っている。
    ただ、外言語化を促すことによって内言語を構築するのであれば、それは学習と思う。
    そういうことだよね?

    >もう1つは患者とセラピストの二人称の世界を構築するための礎となり得るからと考えます。
    ↑これについても、必ずしも外言語化は必要ないと思う。

    >しなかった場合、患者が間違った学習様式(セラピストの外部観察からは評価が困難)を構築しているか否かの判断が困難となります。

    するにせよしないにせよ、困難さは同じだと思う。
    患者の内部表象と言語の表象がミスマッチしていて、さらに患者とセラピストの言語表象がミスマッチしていたら、結局共感も生まれないし、学習も生まれないと思う。

    >現在の脳卒中後の患者で例えるなら、急性期で間違った学習を進めた結果、痙性が強く出現する→回復期~維持期でその痙性と闘っている、といったリハビリの負の現状を生む要因のひとつとなっていると思います。

    だとすれば、一般的な理学療法に比べ、認知運動療法を受けることによって「違った学習」はされにくくなり、痙性(←定義はおいておきます)が出現しにくくなる?

    >論理的思考や予測が立たない状況で人間は生きていく上で、接近するか回避するかのどちらかの選択を迫られる。

    これも、僕の理解は違う。
    人間が生きて行く上では、論理的な部分はほんのわずかで、ほとんどは非論理的だと思う。
    (その非論理的な部分は、文化・風習などで形成されているとおもっていたりする)

    >その場合に共感・信頼のできる相手が導いた道であれば「安全」と判断して行動(接近)する。
    この行動が経験となり内言語を形成することが可能と考えます。

    では、相手が「共感・信頼のできる相手」であることはどうやってまなぶのだろうか?
    接近・回避に関わりなく、内言語は形成されて行くのではなかろうか?

    >これについては、聾唖の方など、先天的な障がいにより、言語をもたない人だと仮定して答えます。例えば言語を持たない子供とお母さんの関係性がヒントになると思います。

    「種」として・・・たとえば、ミミズやアメーバの学習はどう考える?

    >以上より、リハビリテーションを学習過程と考えた場合(この定義も検討は必要です)、学習過程においては内言語の構築・統合・修正が必要であり、患者の内言語の構築を正しく導くためには、セラピストと患者との間に「共感」が必要。共感するための手段の一つとして外言語を導くことも有効な手段の一つとなり得ると考えます。

    ここにおいては、まったく賛成(笑)!
    一つの手段である、「外言語化」を無理矢理させなくてもよいでしょ?
    だめ?
    やっぱり徹底的な外言語化が必要だろうか?

    僕の考えもまとまってくる。
    これは内部観測のなせるわざかな(笑)。

    まだまだお付き合い願いたい。

  5. | KAZZ-ASH より:

    […] kazz blog「つとめて」(2009年12月18日) […]

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