臨床業務を終えて、夕方。
電子カルテで、今日の臨床内容の入力を行っていた。
リハビリ室に残っているのは、中堅のセラピスト君と僕。
ふと、「最近どう?」的な話題から、いろいろ話が盛り上がっていってしまった・・・
という、だいたいこういうパターンで、残業はさらに深い残業となる・・・。
若手に対する不満と理解と
こういうテーマは、どの世代間でも生じるものだと思うし、自分の仕事に対する哲学や人生観によって、さまざまに生じてくるものだと思う。
この中堅君の臨床に対する熱い思いを聞いた。
それはすなわち、若手の臨床に対する姿勢の批判から生じる苦悩でもあった。
それで憤っている。
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他者に対する不満は、潜在的には自己に対する不満だと思う。
他者に対する不満は、他者と自己を同一視することによって生じる。
と、僕はそう考えている。
相手に自分を映し出す。
相手がいわゆる”悪いこと”をしている場合。
その気持ちは、実は自分の中にある。
”悪いことをしている自分”
そんなことはないと思うかもしれないけども、とりあえずそう仮定してみる。
相手が怠けているということを批判するとしよう。
こういう時は、「怠けたいと思っている自分の心」が存在していると思うといい。
相手を ”汚いやつ” だと思った時。
その汚さは自分の中にもある。
で
その「怠けたいと思っている自分」や「汚い自分」が、他者を鏡にすることによって自分にマザマザと見せつけられる。
「怠けたいと思っている自分」や「汚い自分」
そして、それを(そんな自分を)見たくないと、一生懸命に逃げを打つ、そしてそんなことはあってはならぬと、批判する心が生じるのだ。
だから、人の嫌な面が見えた時は、相手をボコボコに批判するのもいいのだけども、人は変えられないと思ったほうがいい。
「あいつ嫌だな」と思ったら、「そんな嫌なやつが自分の中にいる」と思ったほうがいい。
そして
変えるのは自分。
自分の中の、そんな「嫌なやつ」を修正してあげれば良い。
不満というのは、自分の内側にある。
それを、外側(つまり他者)にあると思い込んで、変えられない世界(他者)を変えようと憤るよりも、自分の中にあるそいつを許してあげれば良いのだ。
外側の相手はあくまでも鏡。
・・・で
他者に対して嫌悪感や不満を抱かない(あるいは抱きにくい)人種もいる。
遺伝子によるものなのか育ってきた環境によるものなのかわからないけども、とにかく人のことを悪く言わないような人。
そういう人は、きっとピュアなんだなと思う。
心の中に、汚いところや嫌なところがないのかもしれない。
そういう人はいつも朗らかで美しい。
それが良いのかというとそういうわけでもないのかもしれないのだけれども。
他人に嫌悪感を抱かない人の中には
もしかしたらとんでもない悪党がいるかもしれない。
悪を認識できないくらいに悪
罪悪感の欠片もない人はもしかしたらそうかもしれない。
それも、ある意味ピュア
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さて、
若手に憤っている中堅セラピストの気持ちに
とても共感した僕なのだけども、ある部分については「もうどうでもいいや」と思ってたりもする。
その僕の心の内側がどんなだか
中堅セラピストを鏡として、僕は自分自身の姿をどう見たのだろう?
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