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救護班(1-2)

救護班

昨夜は21時に夕食をとった。
赤十字の救護班は自己完結型で活動を行うため、衣食住は基本的に自分たちで用意することになっている。もちろんゴミも持ち帰る。
食事も出発前に用意した保存の可能なものだ。

ラーメンは下水が破壊されたところでは食べられない。食べてもよいが、スープを捨てられないので、全てを胃袋に入れなければならない。缶詰もそうで、汁を捨てることはならない。
風呂も入ることが出来ないし、トイレも衛生を保つことが難しいような状況になる。

それでも、石巻専修大学では2日前から下水が復活していた。

被災地の方たちはこれを3週間も続けておられる。生き残ったうえで、苦痛な生活を強いられれうかたが多い。

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そんななか、昨夜は自分たちで用意した食事を食べ、その後はすぐに仕事に取りかかった。
僕は、薬剤師さんと医師が、明日の用務地に持っていくための薬の仕分けをしているのを手伝うことにした。

何かしらお役に立てればよいと思い、診察室で薬の品目の読み上げや検索など作業をしていた。

そして、時刻は23時32分あたり・・・

僕たちは、震災後最大級の余震を経験することになった。

『震度6強(M7.4)』

それまでも、何度も余震を経験していたので、最初は「また来たか」くらいに思っていたのだけども、どんどん揺れは大きくなって、天井からつり下がった蛍光灯は大きく揺れ、そして停電・・・

真っ暗な中、ポケットに入っていた携帯電話を電灯代わりに廊下を照らして、自分の荷物のおいてある部屋に戻った。
そこでは、看護師さんたちが別の作業をしていたのだけども、やはり真っ暗な中待機しておられた。

頭につける電灯を手に入れて、再度、診察室へ戻った。

外から促しがあり、津波の警報があるから外にでて大学校舎3階に避難するよういわれた。

外にでると、津波警報の放送がけたたましくサイレンとともに自治体の放送がなっていた。
緊張が走る。

大学には、避難者が数多くおられるようで、その方達も避難されていた。
子供や、気分を悪くされた女性もおられかわいそうだった。

外を見ると、津波から避難する車が列をなして走っていた。

どうなることなんだろう・・・

僕たちはその後、テラスに待機し、どんどん冷えてくる外気の中で不安を募らせた。

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僕たちは救護にきている。

こんな時こそ、避難民の手当に腕をふるうべきだと、そう思っていたが、先輩救護班の指示で、ここでは診療を行わないということになった。

そもそも、診療道具や避難道具を用意していないのが痛手であった。
到着してから、後の予定に備えて準備はしていたけども、このような緊急避難時の体制には備えていなかった。
軽微な避難用具、診療用具は用意しておくべきだと痛感した。

自分たちは被災地にいる。

大気指示を受けた看護師さんも「こんな時こそ」と、やるせなさそうではあったが、到着一日目の新参の救護班でもあるし、先輩たちの指示に従うことにした。

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津波警報が解けた後は、すぐさま地上に戻り、避難道具と診療道具を用意した。
多少の悔しさが残る中、黙々と準備した。

就寝:2時10分と記録にはある。

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