『永訣の朝』は宮沢賢治の詩で、大切なちいさな妹の死を想う奇麗な奇麗な詩だ。
妹は死の床において賢治に、『あめゆじゅ とてちて けんじゃ』(雨雪をとってきて、賢治)と語りかける。
大切な妹の声に、
『わたくしはまがったてっぽうだまのやうに このくらいみぞれのなかに飛びだした』
曲がった鉄砲玉のように、外に飛び出す賢治
けなげな妹の命がもう消えようとしている
音声としての妹の声
『( Ora Ora de shitori egumo )』
わたし、ひとりで逝くからね
『ほんとうにけふおまへはわかれてしまふ』
本当に、今日 お前は別れてしまう
『あめゆじゅ とてちて けんじゃ』という妹の声が繰り返される詩の中に、詩を書いている今の賢治と妹の死の最期に臨む賢治が行き来している。
単純に”思い出し”ているのではなくて、この詩の中で実際に賢治は妹に逢っている。
そして、どう結ぶかというと
『おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ』
『わたくしの すべての さいはひをかけて ねがふ』
私の全ての”幸い”をかけて願う
賢治はしばしば、この「さいはひ(幸い)」というコトバを使う。
賢治の他の物語や詩を読んでみると、この「さいはひ」が身にしみて分かってくる。
「永訣の朝」において賢治がすくった雪は、その対象を妹や賢治という個から抜け出して、”みんな”へと向かう。
それが賢治の祈りとなる。
そこに賢治は、すべての幸い(さいはひ)をかけて願っている
心にしみる詩だ
『永訣の朝』(宮沢賢治)
けふのうちに
とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
うすあかく いっさう 陰惨(いんざん)な 雲から
みぞれは びちょびちょ ふってくる
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
青い蓴菜(じゅんさい)の もやうのついた
これら ふたつの かけた 陶椀に
おまへが たべる あめゆきを とらうとして
わたくしは まがった てっぽうだまのやうに
この くらい みぞれのなかに 飛びだした
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
蒼鉛(そうえん)いろの 暗い雲から
みぞれは びちょびちょ 沈んでくる
ああ とし子
死ぬといふ いまごろになって
わたくしを いっしゃう あかるく するために
こんな さっぱりした 雪のひとわんを
おまへは わたくしに たのんだのだ
ありがたう わたくしの けなげな いもうとよ
わたくしも まっすぐに すすんでいくから
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
はげしい はげしい 熱や あえぎの あひだから
おまへは わたくしに たのんだのだ
銀河や 太陽、気圏(きけん)などと よばれたせかいの
そらから おちた 雪の さいごの ひとわんを……
…ふたきれの みかげせきざいに
みぞれは さびしく たまってゐる
わたくしは そのうへに あぶなくたち
雪と 水との まっしろな 二相系をたもち
すきとほる つめたい雫に みちた
このつややかな 松のえだから
わたくしの やさしい いもうとの
さいごの たべものを もらっていかう
わたしたちが いっしょに そだってきた あひだ
みなれた ちやわんの この 藍のもやうにも
もう けふ おまへは わかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうに けふ おまへは わかれてしまふ
ああ あの とざされた 病室の
くらい びゃうぶや かやの なかに
やさしく あをじろく 燃えてゐる
わたくしの けなげな いもうとよ
この雪は どこを えらばうにも
あんまり どこも まっしろなのだ
あんな おそろしい みだれた そらから
この うつくしい 雪が きたのだ
(うまれで くるたて
こんどは こたに わりやの ごとばかりで
くるしまなあよに うまれてくる)
おまへが たべる この ふたわんの ゆきに
わたくしは いま こころから いのる
どうか これが兜率(とそつ)の 天の食(じき)に 変わって
やがては おまへとみんなとに 聖い資糧を もたらすことを
わたくしの すべての さいはひを かけて ねがふ
朗読
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