先日、後輩君が、神経内科の医師に怒られたという。
聞くに
患者さんの機能回復が停滞しているということ。
そして、その停滞において理学療法士がしっかりと闘えていない、どころか停滞させている要因にすらなり得ているということ。
「悔しくないのか」と言われたらしい。
医師が患者に情熱を傾けている。
できる限りの治療を行っている。
そう言ったことを当然のことと思われるかもしれないが、常に多くの選択を迫られている現場では、むしろ難しいことの部類に入るのかもしれない。
さらにそんな中で、コメディカルに対して檄を飛ばす医師というのはとても頼もしい。
もちろん、僕だって叱られたいワケではないが、そういった緊張感の中で仕事を行うべきだと思う。
専門職としては、他の専門職に檄を飛ばされるというのは「恥」な部分でもある。
良い意味においても悪い意味においても。
あるいは、後輩君が医師にしかられるまでもなく、もっと早く先輩として、あるいは理学療法士内の組織として、目を向けられていなかったという反省も生まれる。
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『障害』
・・・というのか、『健康』分野に置ける人の捉え方がかわって久しい。
以前はICIDH(国際障害分類)のとおり、障害というものを分類し、何が問題かを浮かび上がらせてきた。
悪いところを探して、そこにアプローチをする。
しかしそれは、上手く評価を行わなければ、短絡的な「悪いとこ探し」に偏ってしまう、という感がある。
現在はICF(国際生活機能分類)という概念への変遷の中で、人の悪いところ、つまり「障害」に焦点を当てるのみならず、その人の可能性や良いところもしっかりと評価し、トータルに人間を見ることができるように、ありのままに人をみることができるようになることが進められている。
・・・と、僕はICFを受け止めている。
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参考
国際障害分類初版(ICIDH)から
国際生活機能分類(ICF)へ―改定の経過・趣旨・内容・特徴―上田敏)
実は、当たり前のことのように思えて、たいそうな変化だと僕は思っている。
医療者の行うことは、往々にして悪いところを探す為にあることが多い。
検査は評価というものも、悪いところを探すツールが圧倒的に多いと思う。
日常生活機能の評価にしても、できないところに目を向けることが”多い”。
良いところを生かすための評価やアプローチは、形式としては少ないと言っていいと思う。
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悪いところの評価
もちろんそれも重要だと思うが、
さて、それが偏るとどうなるかというと・・・
遠慮したアプローチを展開しかねない。
ここが悪い
あそこが悪い
痛い
危険
念のため
と一歩引き下がったアプローチを展開しかねないのだと思う。
廃用症候群が進むのもそうかもしれない。
往々にして、セラピストも看護師も
目に見える問題ばかりを取り扱い、
目に見えない問題をほったらかしにする傾向にある
たとえば、『起こしたら低血圧が起こり意識を失うかも』というところを甚大に取り扱い過ぎ、『寝ていたら
抗重力位に対する反応が起きにくくなる』ということはあまり考慮しない。
前者は今見える問題であり、後者は今見えない。
誤嚥についてもそうだ。
今起こるだろう危険を回避するあまり、長期的にはまったく同様(あるいはより質の悪い)の危険を招いているということもある。
・・・
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最近は、「チームアプローチ」という語があまりにも使われすぎて、少々名前が穢されているような気がする。
専門家が集まることがチームアプローチではない。
専門家は専門家として振る舞い、
他の専門家が何を専門にしているかを理解する。
そして自分の専門性を他の専門性に理解してもらう必要性がある。
平たくいえば、『お互いの役割を理解し合った上で協働する』ということだ。
『協働』とは、同じ目的のために、協力して働くこと。
そこには、専門職のみならず、患者本人、家族、地域など広く包含されている。
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叱られる職場を目指そうとは思わない。
しかし、「仲良しこよし」を目指すのも間違っていると思う。
専門家としてのシビアな批判を持ち合わせつつ、誇り高くあらねばならないと思う。
親から子へ
先輩から後輩へという具合に、その専門性がより高みに上るようでなければならない。
後輩の突然変異を望むのではなく、
ここでこそ、先輩達が力を出して職場をまとめていかなければならないのではないかと、強く反省している。
そして、こんな抽象的なことに浸るのみならず、具体的な方策を考えておかなければならぬ。
『知識』『技術』ももちろん大切だが、それらを支える『コミュニケーション』という観点からアプローチをはじめてみたいと思う。
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そして、「教育は平凡への強制だ」(民俗学者 柳田國男)。
いまは、総体として平凡以下になっているのが問題だ。
し、神経内科医もそれを指摘されたのだと思う。
もちろん、個々に抜きん出ている部分はあると思うが、根本的に侵してはならないエラーも同時に存在している。
まずは、その底辺の部分の底上げを、「強制」することが必要ではないか。?
そこから上が個性だ。
「非凡な人は教育を受けたくらいで平凡にはならない」(民俗学者 宮本常一)
参考
(
参考
国際障害分類初版(ICIDH)から
国際生活機能分類(ICF)へ―改定の経過・趣旨・内容・特徴―上田敏)
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コメント
表記
不勉強で自分の意見が言えなくてごめんなさい。
障害者を障がい者と表記することに、医療関係者はどう感じていますか?本人さんやご家族の気持ちは、和らいでいますか?
他に、不快に感じる人がいる言葉や表記があれば、同様に変えていけばいいと思うのですが…
re:表記
>ふむふむさん
コメントありがとうございます。
医療関係者の総体としての意見を僕が言うことはできません。おそらくまとまっていないと思います。
言葉は常に変わっていくものだと思います。
さて
僕個人の体験として言えば、「障がい者」という表記が現れてから、「障害者」にネガティブイメージが深まった気がします。
それまでは何にも思いませんでした。
ただ、「障害」という言葉は用いても、「障害者」という言葉を用いる機会はかなり少なかったと思います。
「チャレンジド」と言い換える場合もあるようですね。
もはや、英語圏では皮肉な使い方をされている感もあるようですが・・・
「不快に感じる人がいる言葉や表記」さまざまありますね。
舌足らず、片手落ち、分裂、奇形、百姓、床屋、サラ金、あんま、女史、未亡人、父兄、長男の嫁、行き止まり、滑る、落ちる、頑張る・・・
言葉の問題は難しいです・・・。
文化を反映しますから、流動的なんです。