ゴミ箱に溢れる血痰で染まったテッシュを思い出す。
死を目の前にした方のリハビリというのもある。
僕ら理学療法士ができることは沢山あると思う。
必ずしも機能訓練を行うだけが僕等の専門性ではない。
もはや死を目の前にして、その生が残念なことにならないように、そして、むしろより良きものになるように、力を添えることが可能な職種の一つだと思う。
動きにくくなった身体であってもなお、効率よく動けるような方法を探ること。
身体の痛みを緩和すること。ココロの痛みを緩和すること。
おじいさんの部屋に伺う前には、詰所で看護師さんから情報を得る。
まだその生命が続いていることに安堵しつつも、患者さん自身は闘いの最中であったり、苦痛や苦悩の最中であったりするのだと思う。
あるいは、決して苦しいばかりではなく、その終わりの時を向かえる準備をされている時もあるだろう。
おじいさんの部屋を前にすると、独特の緊張感が走る。
部屋のドアーを開け、カーテンの向こうのまだ見えぬおじいさんに挨拶をして歩をすすめる。
挨拶の声が聞こえてか聞こえなくてか、おじいさんは僕の顔を見てから挨拶される。
ご家族もおられるが、わざと黙っておられるよう。
おじいさんは息も弱々しいいなか、か細い声を上げられる。
「おー、おー、よく来てくださった・・・」
その声に続くように、ご家族が説明される。
『昨日は大分楽にしてくださったようで、今日も待っていたんですよ。』
笑うおじいさん。
赤十字の『使命(ミッション)』にはこんなコトバがある。
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わたしたちは、
苦しんでいる人を救いたいという思いを結集し、
いかなる状況下でも、
人間のいのちと健康、尊厳を守ります。
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『苦しんでいる人を救いたい』
これは、決して一般論ではなく、臨床においては目の前の現実として現れる。
新聞のお悔やみ欄におじいさんの名前を見つける。
もはやおじいさんに時間がないのは知っていた。
思い出すのはゴミ箱に溢れた血痰のついたテッィシュの山。笑顔。声。
死を前に、おじいさんの苦痛はできる限り取り除かれたのだろうか?
僕はまだ最期の記録には目を通していない。
カルテを見れば、その経過が記録されているだろう。
おじいさんの訴えや、看護師のケア、医師の介入、使われたクスリ、亡くなられた時刻。
不安というのか、
願いというのか、
なんとも複雑な気持ちになる。
僕はまだ最期の記録には目を通していない。
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Unknown
おじいさんや、おばあさんの記事を見ると、亡くなった両親の事を思い、泣けてきます。自分なりに頑張ったつもりだったけど、日を経るごとに、もっと、もっと、出来る事があったのにと後悔する日々です。
>cyamaさん
ご両親はcyamaさんにいまでもそういうふうに思ってもらって、喜んでおられると思いますよ。