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最期の記録

理学療法/病院

ゴミ箱に溢れる血痰で染まったテッシュを思い出す。

死を目の前にした方のリハビリというのもある。

僕ら理学療法士ができることは沢山あると思う。

必ずしも機能訓練を行うだけが僕等の専門性ではない。

もはや死を目の前にして、その生が残念なことにならないように、そして、むしろより良きものになるように、力を添えることが可能な職種の一つだと思う。

動きにくくなった身体であってもなお、効率よく動けるような方法を探ること。
身体の痛みを緩和すること。ココロの痛みを緩和すること。

おじいさんの部屋に伺う前には、詰所で看護師さんから情報を得る。

まだその生命が続いていることに安堵しつつも、患者さん自身は闘いの最中であったり、苦痛や苦悩の最中であったりするのだと思う。
あるいは、決して苦しいばかりではなく、その終わりの時を向かえる準備をされている時もあるだろう。

おじいさんの部屋を前にすると、独特の緊張感が走る。

部屋のドアーを開け、カーテンの向こうのまだ見えぬおじいさんに挨拶をして歩をすすめる。

挨拶の声が聞こえてか聞こえなくてか、おじいさんは僕の顔を見てから挨拶される。

ご家族もおられるが、わざと黙っておられるよう。

おじいさんは息も弱々しいいなか、か細い声を上げられる。

「おー、おー、よく来てくださった・・・」

その声に続くように、ご家族が説明される。

『昨日は大分楽にしてくださったようで、今日も待っていたんですよ。』

笑うおじいさん。

赤十字の『使命(ミッション)』にはこんなコトバがある。

----------------
わたしたちは、
苦しんでいる人を救いたいという思いを結集し、
いかなる状況下でも、
人間のいのちと健康、尊厳を守ります。
----------------

『苦しんでいる人を救いたい』

これは、決して一般論ではなく、臨床においては目の前の現実として現れる。

新聞のお悔やみ欄におじいさんの名前を見つける。

もはやおじいさんに時間がないのは知っていた。

思い出すのはゴミ箱に溢れた血痰のついたテッィシュの山。笑顔。声。

死を前に、おじいさんの苦痛はできる限り取り除かれたのだろうか?

僕はまだ最期の記録には目を通していない。

カルテを見れば、その経過が記録されているだろう。

おじいさんの訴えや、看護師のケア、医師の介入、使われたクスリ、亡くなられた時刻。

不安というのか、
願いというのか、

なんとも複雑な気持ちになる。

僕はまだ最期の記録には目を通していない。

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参考

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コメント

  1. cyama より:

    Unknown
    おじいさんや、おばあさんの記事を見ると、亡くなった両親の事を思い、泣けてきます。自分なりに頑張ったつもりだったけど、日を経るごとに、もっと、もっと、出来る事があったのにと後悔する日々です。

  2. kazz より:

    >cyamaさん
    ご両親はcyamaさんにいまでもそういうふうに思ってもらって、喜んでおられると思いますよ。

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