もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、 僕が生まれる前に何をやってたとか、そういった>式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。
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女の子がね
「『よく死ぬ』って、何回も死ぬってこと?」って聞いてきたんだよ。
『よく』
て言葉を、『しばしば』とか『たびたび』とか『たくさん』っていう意味と思ったんだね。
よく転ぶとか、よく食べるとかね、そういった感じに思ったらしいんだ。
だから、どう教えたらいいものかと考えたんだけどね。
僕としても『よく死ぬ』てのがどういう意味かよくわからなかったんだ。
説明って難しいよね。
僕は一息、考えたあとで
「いい死に方をするという意味だよ」って答えたんだ。
そうすると女の子はこういったんだ。
自信満々の笑顔でね。
「いい死に方をする方法知っているよ」って。
純粋な笑顔だったね。
「どうするの?」って聞いてって顔をしているんだよ。
だから、まぁ、僕はその通りにしたんだよ。
まいっちゃうね。
小学生ってのはほっとくことができないんだよ。
大人だったら、素っ気なく知らんぷりしていることも出来るんだけどね。
そしたら、その女の子、どう言ったと思う?
「日記に『とても良い最期でした』って書いとくんだよ」
って教えてくれたんだよ。
これまたまいっちゃうね。
死んだ人は、自分が死んだ後に自分が体験した死を訴えることは出来ないだろ?
『とても良い最期でした』が日記に残っているためには、死んだ後にそれを書くか、死ぬ前にそれを書くかしかないんだ。
分かるよね?
それでだよ
死んだ後に書いたとすれば、死後の存在を臭わすことができるよな。
つまり、家族とか友達とかに、死んだ後で教えるんだ。死んだけど、『とても良い最期』でしたってね。
その場合は、やっぱり『とても良い最期』だったのだろう。
日記を読んだ人もそう思うだろうね。死者からのメッセージだからね。
けどもね。日記を読んだほとんどの人はこう思うだろうね。死ぬ前に書いたんだろう、って。
でも、その場合、その人が死ぬまで『とても良く生きようとしていた』ってことだろ?
でなきゃ、日記を消すか、『やっぱり悪かった』って書き直すだろう。
時間がなくて消せなかったってこともあるだろうけど、死ぬ人なんてのは、そういうことを大切にしているだろうから、やっぱり消すか、はじめから書かない筈だろうからね。
それで、考えるんだな。
『よく死ぬ』ってのは誰のものだろうって。
死ぬ人のものなのか、死ぬ人以外のものなのか。
『肉体的な死は、空間的な肉体と時間的な意識を消滅させはするが、生命の根幹をなしているもの、すなわち、個々の存在の世界に対する特別の関係を消滅させることはできない』
トルストイが『人生論』で言ってたことは、「日記に『とても良い最期でした』って書いとくんだよ」てことと同じことなんじゃないかって思うんだよ。
女の子のひらめきと同じようなことなんだな。
これまたまいっちゃうよね。
女の子は「『よく死ぬ』って、何回も死ぬってこと?」なんて言っていたんだから。
そんなこと出来っこないのにね。
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僕が話そうと思うのはこれだけなんだ。