ありがちな話
その組織が掲げる目標が
というようなものだったとしよう。
これらは確かに大切な項目ではあるけれど、それは目標というより手段ではないか?
ここがまったく抜け落ちてしまっている。
その組織が
働きやすく、意見が言いやすく、協調的だとして
何をすべきか?
考えているのだろうか?
しかし、先にあげたような曖昧な、緩やかな、優しさに満ちた目標といわれるものに対して、
「果たして、これは目標足りうるのか?」
と意見すれば
ナントナク
働きにくさを生み
ナントナク
意見が言いにくいと感じさせ
ナントナク
非協調な感じを生む
・・・のだろう
平和主義者が戦争を起こすように
協調論者が反対意見を排除するように
そのように社会は形成されているのかもしれない
矜持を捨て
ワガママなまま育ち
なんでも手に入れられた世代が
「犠牲」や「代償」のない世界に生きたいという
そんな夢物語のような世界を否定したいわけではない
なんというか
もう、相手にしたくない・・・という感じだ
三島由紀夫風に言えば、
それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。