すべて論理的に説明できるかというと、そうではないと思う。
こと、日本人は古くからその日本人としての精神性を磨いてきた。
そこに、論理性はないのであると思う。
あるいは、論理性はなくてよいのだと思う。
『これはこういう理由で、そうなっている』なんていう説明はいらない。
後付けの理由は本質を物語らないのだと思う。
会津藩の教育として『什の誓ひ(じゅうのちかい)』というのがある。
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一、年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
一、虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
一、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
一、弱いものをいぢめてはなりませぬ。
一、戸外でモノを食べてはなりませぬ。
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
ならぬ事はならぬものです。
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これは、身分の区別なく子供たちが、反復し口に出し、身につけるべきものであった。
この「なりませぬ」という誓いの最後には
『ならぬ事はならぬものです。』
と締めくくられている。
『ダメなものはダメ』ということだ。
最近、大人はこれを言えなくなっている。
なんでも、理詰め・論理詰めでなければ「ただしい」と言えなくなっている。
精神性に不安があるからだ。
しかし、多くのことは理由がないのではなかろうか?
そこに理由を求めない精神。
理由を求めなくてもよい文化がそこにあるから。
先人たちのつながりのもとに、いまわれわれが在るからだ。
『「卑怯者」な人間。』
これは、人間として全否定されたのと同様。
そこに理由はない。
卑怯に理由はない。
卑怯であってはならぬという理由はない。
ただ、卑怯者にはならぬように精神も肉体も鍛えられてきたのが日本人だ。
恥を知り、そこから成長する。
民族や文化が長らく経験してきて培った合理性は、現代資本主義(民主主義)の刹那的な合理性とは質を異にする。
大東亜戦争以前の日本という国は、2600年もの間他国から侵略を受けず、長らく培った民度を 学問・芸術・宗教など様々なものに昇華してきた。
また、そういった学問・芸術・宗教が、さらに民度を高みへと押し上げていったのだと思う。
「ならぬ事はならぬのだ」と言うことに自信が持てるようにな大人になりたい。
あ、
Σ(  ̄□ ̄;)
おれ、もう今年で34だわ!
ガ━Σ(゜Д゜||;)━ン!!!
ナ、ナラヌ...