つまり、親が子供に「名前」を授けるように「モノ」に対して「名」をつけるというのは、「存在」を内的に概念規定する力を持つことである。無数にある世界の「実体」に対して、いかに「名」をつけるか。「名」によってそこに世界の一部が認識されることになれば、それは言葉という抽象化された記号によって「実体」を手中にすることになる。森羅万象に「名」をつけることによって人はそれを認識し、そして世界の構造を掌握して行こうという努力をするのである。
(山口 謠司「日本語の奇跡 <アイウエオ>と<いろは>の発明」より)
つまりこれが、陰陽師で言う「呪(しゅ)」であって、対象やあるいは自己(自己の思考)さえも固定する(固定してしまう)という「名」の力なのだと思う。
呪 (しゅ)とは名ではないかと
ふと思ってな・・・
山とか 海とか 樹とか 草とか
そういう名も呪のひとつだ
呪とはようするに
ものを縛ることよ
ものの根本的な
在様(ありよう)を縛るというのは
名だぞ
そして、ある場面で、博雅(下の右側の人)がモノノケになお名乗ったことで、自由を奪われてしまう。
おぬしは
不用意に本名をあかしホイホイ返事をするから
呪にかかるのだよ博雅
↑
わかるかな?
言葉にしたとたんに、そのもの(ものごと)は縛られてしまう。
呪をかけられてしまうのだ。
野口三千三(のぐち みちぞう)はこう語っている。
いったん一つのコトバで言ってしまうと、それで何かもう枠づけされたような感じになっていやですね
名前をつけるってことは、実は認識の働きそのものなんです。認識の作業そのものが名前を付けるってことです。誰かにつけられた名前と、自分でつけた名前とでは大変な違いがある。質が違うんです。
んで、
いったんコトバにだされたものは、そのもの本来の意味を失うということで、言語を解体し新たに作られた無意味後言語「ザーウミ(超言語)」というものがある。
言葉は滅びてゆくが、世界は永遠に若い。芸術家は世界を新しく見だしたのであり、アダムのように、すべてのものにその名をあたえている。liliya(リーリヤ「百合の花」)は美しいが、「リーリヤ」なる言葉は手垢にまみれ「汚辱されている」。それゆえに私は百合の花をeuy(エウゥイ)と名づける。こうして原初の清廉がよみがえったのである。
(クルチョーヌイフ「言葉それ自体の宣言」桑野隆『夢見る権利』第一章より)
手垢にまみれ「汚辱されている」とはよく言ったもんだ!
リーリヤが、本当のリーリヤをもはや表現できていないので、一見(一聴?)無意味な音韻をあたえて、彼のなかにある、みごとなもの(僕には百合の花に見えるもの)を表現している。
「エウゥイ」は彼の中にあって、僕の中にはないものだけど、一般的には同一なものだ・・・つまり百合の花。
もう一度野口三千三にもどると
一億を超えるコトバを使って話しかけたとしても、自分の気持ちがそのまま性格に受け入れてもらえるのは、たった一言だけかもしれないのだ。対話において、「理解とは誤解のことである。誤解以外の理解は事実として存在しない」「感覚とは錯覚のことである。錯覚以外の感覚は事実として存在しない」と覚悟すべきである。