夏目漱石の小説が好きなのだけれども、実は読んでいない代表作がある。
吾輩は猫である (新潮文庫)夏目 漱石新潮社このアイテムの詳細を見る |
読んでないというか、途中で読むのをやめたままになっている(筈)
んで、また、読んでみようかと思っている。
キッカケはこれ
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吾輩は猫である (声にだすことばえほん)夏目 漱石ほるぷ出版このアイテムの詳細を見る |
この絵本は齋藤孝氏が編集してあるのだけど、巻末のことばが非常に良い。
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夏目漱石は「日本語のお手本」
『吾輩は猫である』は、明治時代に書かれて国民的大ベストセラーとなった小説だ。今の人はなかなか全部読むことが少なくなっている。しかし、一昔前はこれを小学生が読んでいたのだ。
今回、絵本にするにあたって、猫の世界のおもしろさが良く出ているところを選んだ。この本全体を通して読むと、人間お世界のいろいろなばかばかしさやウソくささといったものを、猫の視点から見るかたちでおもしろおかしく批評するという内容になっている。
『吾輩は猫である』は日本を代表するユーモア小説だ。まず、猫が人間の言葉をしゃべれたらという発想が面白い。それに加えて、その猫の主語を「吾輩」としたところに面白さが凝縮されている。この『吾輩は猫である』というタイトルは日本の文学史上画期的なタイトルで、これを上回るようなタイトルはなかなかないと思う。このタイトルは、猫が主人公であるということに加え、その猫が自分のことを「それなりの人物(猫物)である」と思っているという、その猫の性格まであらわしてしまっている。この「吾輩」という言葉はよそいきの正式な服のような言葉だ。しっかりした和服を猫が来てしまっているように「吾輩」というよそいきの言葉を猫が使うというギャップの面白さのイメージもタイトルで示しているわけだ。
「名前はまだ無い」という文句も秀逸だ。そもそも名前のない主人公というのがすごく画期的だ。実は「吾輩」は誰にもまだ名前をつけてもらえないような存在の軽い猫なのだ。この物語の中でもっとも軽い存在である猫が、人間の世界をじっと見通しているという面白さ。「吾輩」は軽い存在であるからこそ、他の人にもほとんど見つけられずに、こちら側から向こうを見ることができるのだ。
さらに、この猫が「世の中をそんなにまだ知らない」という設定も面白い。最初に書生と出会う場面にもそれがよく出ている。ちなみに書生というのは、お弟子さんとか学生さんのことで、特に人の家に世話になりながら学問をする人のことをさした言葉だ。「吾輩」は、いろいろなことを見聞きして、世の中のことをわかって覚えていくのだが、このことは、人間の子供にも当てはまる。子どもというのも、世の中のことをまだわからなくても、なぜ大人はぺこぺこお辞儀ばっかりしているのだろうとか、電話に出るときだけどうして声が変わるのだろう、とかいうふうに、大人たちが何か変なことをしているなあということをよく見ている。物語のなかの「吾輩」の視点と、子どもが大人を見て変だなあと感じる視点とを、重ね合わせて呼んでみても面白いだろう。
漱石は漢文が得意で、落語もすごく好きで、さらに英文学の教師であり、論理的思考がしっかりできていた。日本語全般がいろいろな意味で得意だったわけで、今はあまり使われないような言葉づかいも含めて、日本語の奥深さが非常に良くわかる文章を書く。つまり、漱石の文章は、それを身につけていれば、現代の日本語の基本はほぼ大丈夫になるというほどの質のものなのだ。
こういうのがいい日本語だというのがよくわかる「日本語のお手本」として、ぜひ、『吾輩は猫である』を音読してもらいたい。(齋藤孝)
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というわけで、読書意欲をかき立てられた。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生まれたか頓(とん)と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
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『猫』
『猫』は、日本には余り発展しなかった滑稽小説ですね。
『猫』の流れを汲む現代小説は、丸谷才一『たったひとりの反乱』ですね。
re:『猫』
>風紋さん
コメントありがとうございます。
丸谷才一『たったひとりの反乱』
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まったく知りませんでしたが、これを機にチェックしてみようと思います。