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腑に落ちる

『私たちの生き方には二通りしかない。 奇跡など全く起こらないかのように生きるか、 すべてが奇跡であるかのように生きるかである。』
(アルバート・アインシュタイン)

本を読むタイミングというは、非常にに重要であると思う。

子供の頃に読んでおくべき本は子供の頃に読んでおくとよいし、読むその時々において同じ本でも内容や意味が変わってくる。

この度、Nigel Lawes(ナイジェル・ローズ)教授の「運動学習」の講演会を大阪に聞きに行った時に、鞄に入れた本が2冊ある。
新たな本ではなくて、以前読んでいた本を本棚からとり上げた。

一冊は
■坊ちゃん

坊っちゃん (新潮文庫)
夏目 漱石
新潮社

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これは、先日のボバース勉強会批判事件(※1※2)のことがあってだと思う。
何かに対して批判的意見を述べたら、すぐに批判される。「違う」と言うことよりも「違うと言った」ことが問題になる。
「違うことを違うと言って何が悪い」という(ヒネた)感情もあり、夏目漱石の「坊ちゃん」に手が伸びたのだろう。
この本は、「ライ麦畑でつかまえて」同様の爽快感がある。

さて、もう一冊
何故だか手にしていたのは、野口三千三の

■原初生命体としての人間

原初生命体としての人間 ― 野口体操の理論
野口 三千三
岩波書店

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結果から言えば
この時期にこの本に手が伸びたのは、非常によいことだったと思う。

大阪の講習会では、人の脳に関する生理学や運動学習における心理学(的実験)の勉強ができた。
最新の知見や考え方も学ぶことができ、非常に勉強になった。

そして
その余韻を残したまま、『原初生命体としての人間』を読んでいる。
今回大阪で学んだことを、この野口三千三の書で再解釈できる・・・そういう幸せに浸っている。

たとえば、
野口三千三の直感や体験を通した言葉
『次々の瞬間に新しい仕事をするためには、次々の今において、なるべく多くの筋肉が休んでいることが必要となる。』

これは今回の生理学の講義の中で出てきた
『直接路における皮質の運動発現はLow tone(低緊張)を伴う』というのと呼応する気がする。

神経学的な話として基底核のモデルを勉強しながらも、野口三千三の解釈が横から入ってくる。

かたや40年前の体感であり、かたや近年の研究室の結果である。
情報の新旧や性状の問題ではなくて、そのミックス具合というのか、僕の中での掛け合いが、意味を持つ。

いま、ここで、この本を開く。
よくぞまぁ、こんな組み合わせがあったものだと、深く溜め息が出る。

であいの意味を感じた時ってのは、非常に幸福だ。
同じ活字も、読む時々において、意味を違える。
読み古した本でも、その読む時においては新たな出会いとなる。

『わかるということは、分けるということであり、分けることができるようになった時に「わかった」という。そのものが、それ以外のものと区別できるようになったことである。これは、存在・認識・情報の本質である。分けることができたら、それとそれでないものとの関係をはっきりとつきとめる。それができた時に「よくわかった」という。』(野口三千三:『原初生命体としての人間』より)

分かったことが増えていく。

そして、さらに再統合・再解釈が行える。

『腑に落ちる』

この快感があるから、勉強がたのしい。

そして、「坊ちゃん」読後の爽快・痛快さが持続しているのだと感じる。

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参考

KAZZ BLOG「どこに根拠があるのか?」(2010年10月24日)
KAZZ BLOG「ボバースアプローチは何でもあり?」(2010年10月23日)

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