用語というものはしばしば変わったりする。
その中の一つに
『認知症(にんちしょう)』
という語がある。
以前は『痴呆(ちほう)』と言われていたのだが、2004年から法改正により『認知症』が正規に使用されることとなった。
痴:愚かなこと。ばかげていること。また、そのさま。
呆:愚か。ばか。ぼんやりするさま。
といった具合に、『痴呆』という語は、差別的な意味合いを含んでいるからというのである。
ちなみに、『痴呆』は明治末期から『dementia(ディメンチア)』の訳語として使用されているらしい。
さて
新しく(といっても2004年から)登場した『認知症』という語に対する反発も多い。
たしかに、僕自身も当初『認知症』の使用に対して「なんだそれ?」と違和感を感じたものだ。
当時は、この語が定着するとも思っていなかったのだが、今となっては『痴呆』という語が口から出る機会も滅多になくなってしまい、やはり侮蔑的な意味合いであるという感触が強くなっている。
しかし
では、この『認知症』という語が適切かというと、それもやはり議論しなければならないことである、と思う。
そもそも心理学的な知的活動である「認知」に「症」をくっつけるのもおかしい気がする。
で、この度紹介したいのが
総合臨床20011年9月号の特集は『認知症』なのだが、その中で、東京女子医科大学名誉教授の岩田誠先生はあえて『認知症』という語の使用を避けておられる。もちろん『痴呆』を使用しているわけではない。
■デメンチアの脳科学
と、こうされている。
僕としては、「デメンチア」より「ディメンチア」の方がしっくりくるのだが
なるほど、こういう手があったかと声をもらさずにはいられない。
そして先生は、かなり筆圧を強くされて、冒頭、訴えておられる。
「日本語における漢字の使用法としてはなはだ不適切」
「漢字を生み出した中国語使用者に置いても、認知症という用語に違和感がある。」
「筆者は医師を含む医療従事者を対象とする著作においては、認知症という語を用いず、デメンチアというようを使用することにしている。」
そして、駄目押しにこう述べておられる。
「本誌においては、筆者が医学用語としては認めていない認知症という語が、特集のタイトルとして用いられ、また、各著者も認知症という用語を、抵抗無く受け入れて使っているようであるが、筆者は、敢えて認知症という語を使用させていただくことをお許し願いたい。」
なんて素敵な冒頭を持つ論文だ!
『お許し願いたい。』といいつつも、あからさまな挑発にもとれる。
いや、挑発ではないな・・・なんというか正論を叩き付けて、相手を目覚めさせるようなそんな勢いだ。
しかも、その主張に筋が通っているように思える。
喜び勇んで図書館におられた神経内科医の先生に「この論文の岩田先生のことご存知ですか?」と尋ねたら、神経内科医では知らないものはいないだろうということだった。しかも、先生もファン(?)らしく、岩田先生の著作をいくつも持っておられるということ。
なんだか嬉しいね。
ウチの図書館で探してみたところ、雑誌「神経内科67(3):290-294,2007」の論文
『「認知症」という用語を中国人はどう思うか』
というのを見つけて読んだ。
同じ岩田先生の論文だ。
なかなか力のある論文だな。
こういったものに出会うと、非常に嬉しくなる。
しかし、結局「認知症」という用語は世間に定着してしまっている。
大切なのは意識なのだろう。
また、手垢にまみれた頃にすんなり改変されることになると思う。
それまでは、仕方なくこの用語を使用するかと思っていたが・・・
「デメンチア:dementia」ね、そのまま用いればいいのだ。
しかし、「認知症」の特集で、その特集タイトルに疑問符を叩き付けて、自らは敢えてそのタイトルを使わず述べるなんてのは、なんとも歌舞いているというか・・・。
ちなみに、もう一つ、
この先生は
『デメンチア患者の呈するさまざまな行動の中には、個々人のそれまで生きてきた人生のすべてが反映されている』ということから、『デメンチアの神経科学』ではなく『デメンチアの脳科学』としての視点でとられておられるようだ。
これもなるほどなと思う。
すこし浸ってみたいと思う。
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