緩和ケアシンポジウムに参加した。
自らの「がん」体験を、医師であり患者である立場から語る先生の講演があった。
「体験者」としての先生のとても良い話を聴けた。
・・・が、反面
ぼくはその立場に立って物事を考えることができない・・・
という、苦しさも味わった。
先生もおっしゃっていたが、
患者自身は四六時中、自身のそのこと(病気)を考えておられる。
医療者が彼(=患者さん)のそのことを考えるのは、一時である。
『点と線』と説明されたが、患者さんにとって病気は「線」である。
体験としての連続性をもったもの。
医療者にとっては、彼の病気は「点」である。
その患者さんのことを考える時にのみ、その病気について考える。
点と線の隔たりは大きい。
たとえ、多くの点を集めても「線」にはなり得ないと思う。
もし、
「わたしは、点をたくさん集めて線にする」
という人がいたら、とんだ勘違いなのだと思う。
「点」を「線」の様に近づけても絶対に「線」にはなり得ない。
そう思う。
患者
そこには、とてつもない『私秘性(しひせい)』というものが存在するのは確かだと思う。
『個』というのは、究極のマイノリティ(少数派)であると同時に、マジョリティ(多数派)を包含している。
矛盾するようだが。。。
患者さんのことを考える時に、大多数を当てはめてはならないと思う。
今日のシンポジウムでもあった。
『アンケートをとって、こう言う意見が多かった。』と。
こう言うアンケート発表を見るたびに、僕は感じる。
きっと僕はマイノリティだ。マイノリティになるに違いない・・・と。
僕は救いの大正となるマジョリティとは違って、救われない側のマイノリティになるんだ・・・と。
なので、
多くの人が思うであろうこと、体験するであろうことに対するアプローチよりも、個々の意見のレンジ(幅)に対応できるようになってもらいたいと、(対策案ももたずに)感じてしまう。
医療現場というのは
残酷に言えば、あんまり患者さんのことを考えてはいない。
考えているのは、患者さん「たち」のことだ。
そこで
せめてもの我々の技術は、
やはり
『共感』
というものではなかろうかと思う。
それには、想像力がいると思う。
相手の気持ちを忖度する能力というのか・・・
相手の感性に入り込む力がいる。
やはり、体験者とそうでない人の隔たりは大きい。
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童の頃は
思うことも童のごとく
考えることも童のごとく
論ずることも童のごとく
なりしが
人となりては
童のことを棄てたり
「コリント人への第一の手紙」の一節(第13章11節)
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患者さんたちと僕との間には埋めがたい溝がある。
体験者として語られた先生は、医師である・・・と同時に患者である。
そこには、もはや医師であった「先生」は存在せず、
患者になった医師という「個」が存在する。
体験者とそうでない人との間にある溝
「0」と「1」との間にある溝は永遠の様に深い。
僕は、その溝の向こうを想像することしかできない。
その想像は、間違っているかもしれない。
あるいは、僕の自己満足であったり、患者さんに撮っては迷惑になっているかもしれない。
それだからこそ、もっともっと想像力が必要だ。
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ちなみに
僕は、「患者体験」だとか「障害体験」だとかは嫌いだ。
「嫌い」というと語弊があるか・・・
間違ってとらえられやすいと思う。
と、
学生の頃、思った。
「患者さんの身になって世界をとらえる為に、体験してみよう」
・・・これは、間違いだと思う。
多くの場合、「~体験」というものは、あまりにも現実とはかけ離れているんではないだろうか?と思ってしまったりする。
僕がひねくれているだけだろうか?
学生の頃、「障害体験」といって車椅子に坐って過ごしたけども、これはあまりにも障害の側面であって、もしかしたら、全く間違ったことを体験してしまったのではないか?と思ってさえしまう。
ゾウを団扇(ウチワ)と表現するのとなんらかわりがない。
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話しがまとまらない。
・・・とにかく、今回の緩和ケアシンポジウムは胸が痛かった。
結果、「個」としてぶつかり合うしかないではないかと・・・そう思ったりした。