今は昔
小学生の頃か・・・
家族からはいつも
「kazz、コーヒー入れて」
と言われていた。
コーヒーといっても、インスタント珈琲だ。
親にとっては、都合のよい給仕みたいなものだったかもしれない。
けど
僕は、家族全員分の好みを理解していた。
コーヒーの濃さや、砂糖、ミルクの量・・・
「kazzの入れるコーヒーは美味しい!」
といつも言われていた。
家族皆から言われた。
褒められる(おだてられる)ので、僕も気分よくコーヒーを入れていた。
コーヒー入れがかりはkazzの仕事。
美味しいコーヒーを入れるのには、粉の量だけに気を使っている訳ではなかった。
お湯のわかし方がある。
最近ではもう考えられないけど、お湯はポットからではなくて、鍋で沸かしていた。
当時ポットなんてなかったような気がする。
(あるいは貧乏だったのか?)
そして
鍋を火にかけて
「美味しくなるように」
と念を込めるのだ。
半儀式的にそれをやっていた。
念に呼応するように、グツグツと湯が沸いてくるのが楽しかったし、最終的にボコボコ状態になると、出来上がりの感じがした。
魔女みたいな感じだけど、呪文というよりも、やはり「念」だと思う。
そうしていれたコーヒーは、やはり「美味しい!」と言われた。
当時は、「念じなくても美味しいコーヒーは入るのか」なんて考えもしなかったし、検証もしなかった。当然のように念じながら湯を沸かし、家族の好みの粉の量を自分なりに微調整して給仕していた。
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今は今
「先生、念じとるやろっ!」
患者さんは、うつぶせ状態で突然声を上げられた。
患者さんは右翼の親分で、威勢がよく、はっきりと物事を言う方。
少し関西訛りっぽいのだけど、言葉使いの割に礼儀正しく、僕のような若者にも礼を欠くことはない方だ。
この方の担当理学療法士は休暇のため、今日は僕が代わりに担当。
勤務の都合で、週に一回は僕が担当となる。
「念じとるやろっ!」と言われたとき、
僕は患者さんの背中の筋肉を圧迫してほぐす手技を行っていた。
「念じとるやろ!なんか熱いホカロン押し付けられてるかと思ったわ!めっちゃ熱いでぇ!」
右翼のおじさんは、そう言われた。
「そやから、やっぱり先生にやってもらって痛みがなくなるのは、そのおかげやわ。先生、手から絶対ナンか出とるでぇ!気功みたいな。めっちゃ熱いでぇ!」
気功ですか(笑)!
と笑って答えたけども
・・・念じているのは本当だった。
右翼のおじさんの言われることは本当で、僕のささやかな心を見抜かれた気がした。
患者さんに触れる時には、念じるようにしている。
小学校からのクセというのか、インスタントコーヒーを入れる際に、湯を沸かしながら鍋を見つめているときと同じだ。
「よくなれ、よくなれ」「楽になれ、楽になれ」と念じる。
もちろん、今も昔も念じる時と念じない時との結果がどうかなんて検証したことはない。
念じることで損をすることはないと思うし、
むしろ、念じることで何かに繋がる感じがする。
そして、
不意に患者さんが「念じとるやろ」と言われたことや、「やってもらうとよくなる」と言われることは
やはり、「kazzの入れたコーヒーは美味しい」と同価に、給仕冥利に尽きるというのか、セラピスト冥利に尽きるというのか・・・そんな幸福感を感じ、また患者さんとも幸せ感を共有できているような気がする。
なにも、怪しい宗教の話ではなくて、
「真心を込める」というのか、(自分で言って恥ずかしい気がするけど)そういったものの気がする。
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ちなみに、
あやしい話ついでにいうと
僕は「玄関の神様」を感じることができる。
八百万(やおろず)の神のうちで、やはり「玄関の神様」は、身近で強い。
多くの人がそうだと思うけど、僕も小さい頃から、玄関の靴をそろえるように言われて育った。
そして、玄関掃除も僕の仕事だった。
そのせいだと思うが、「玄関の神様」を感じるようになった。
靴をそろえないことは、玄関の穢(けが)れ。
玄関に砂ボコリを溜めることは、玄関の穢れ。
「玄関の神様」の怒りをかうのだ。
逆に、玄関を奇麗にすることは清めになり、家族もだが、「玄関の神様」の居心地が良くなる。
自分の靴だろうが、他人の靴だろうが
自分の家だろうが、他人の家だろうが
玄関の奇麗さを見ると、その家の「玄関の神様」の居心地がどうかを考えてしまう。
「人の靴もそろえなさい」
と親や婆さんに教わったが、年を取るとよけいにそれが全うだと感じている。
靴をそろえるにも念が入る。
もちろん靴を並べた時と、靴が散らかった時の影響を検証する気は更々ない。