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葬儀

久々に葬式に出た。

良いことか悪いことか、僕の人生で葬儀に出席したのはこの度で2度目にしかならない。

故人を弔い悲しむこと、それと葬儀は別のもののような感じがする。
もちろん、同一も場合もあろうが、やはり時が経てば葬儀とは別の形で弔いは進む。

葬儀は葬儀として執り行われるようになっている。
この儀式を執り行うことが、例え葬儀の意味は分からなくとも、この世にいる人のお勤めにはなろう。

もはや、家や寺で葬式を行うことは少なくなったのかもしれない。

『葬式仏教』というのは、やや批判めいた言葉として使われることが多い。

しかし、
家族や地域とのかかわり合いを取り戻すために、葬式仏教を復古すべきとは末木文美士の言葉だったろうか・・・。

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宗教宗派によって違いもあろうが、今日の葬儀も僧の役割は葬祭会館のすすめるプログラムの一部のようになっている。

これは決して批判ではないのだけども、僧が生まれ変わりを説き、葬祭会館の進行役が開蓮忌や大蓮忌というものの説明を行うのには、どうも違和感を覚える。

戒律を説くお経を詠んだかと思うと、最後には般若心経をも詠む。
その解釈は自分でしなさいと言うことなのか、あるいは、他力に依って導かれるのか、あるいは詠むこと自体に何らかの力が宿っているのか、あるいは・・・

大きな揺さぶりをかけられたような感じだ。
隣では親族一同が僧に合わせてがお経を読んでいたりする。

今まで出会ったこともない僧が読経する。
遠ざけたいわけではないけども、親しみがない。
当然、向こうも僕の顔を知るまい。

そういった意味では僧の読経も解説も、どこか、僕の心に響かない。

しかし、唯一この上ない親しみを感じたことがあった。
立ち去り際に、ふと足を止め今まで座っていた椅子のほうを振り返り、ほんのわずか斜めになっていた椅子の位置を元通りにまっすぐに直されたのだ。
その仕草。経よりもなによりも、そういうところに仏が宿るような気がした。

聖徳太子は篤く三宝を敬えと言ったらしいが、仏も法も僧も、敬われる対象なのだ。

困惑気味に前を向いていると、故人の写真が半ば笑顔でこちらを見つめている。

ろうそくの灯火がゆらゆら揺れていた。
背景の照明の色が知らぬ間に変わっていた。

コメント

  1. まる より:

    平日お休みの暇人がきました(笑)
    確かに今は、葬儀場を借りてが多くなって来てるのでしょうね。
    私の地域は田舎なので、自宅や寺ですね。

    僧侶が行った、椅子を整える所作は快いですね。
    たつ鳥、後を濁さずではないですけど、使った物は定物定位に戻すとか、履き物を揃えるとか、日常の積み重ねが表れるものかも…
     気をつけねば…(^o^;

    たしか、面白Projectの実行が今月末でしたっけ?
    頑張ってください!!
    (終わっているなら、申し訳ありません(笑))

  2. kazz より:

    re:平日お休みの暇人がきました(笑)
    >まるさん
    こんにちは!
    ブログ記事を徐々にアップしておりまする!

    おかげさまで面白Projectは無事終了いたしました!
    弾き語りをしたんですよ、人生初の。

    人生初でありながら300人以上の前で・・・(*^_^*) ぽっ
    11月22日でございました。

  3. まる より:

    楽しみが増えた(笑)
    うわぁーっ!
    知らないうちに、たくさん更新されてるっ!

    しかーし!残念な事に私は今、年末商戦中(笑)ですので、ゆっくり楽しめませぬ(´Д`)

    ゆっくりコメントしたーい(義務じゃないだろっ)ので、暇になったらコメントします!

    演奏だけでも凄いのに、歌まで歌うなんて凄すぎです!私なら演奏だけで、ていいっぱいです(笑)
    大勢の前だと緊張しますよね。

    では、良いお年を~!

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