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神について考えてみる。

我が家には、たまに宗教の勧誘か布教か何かの方が尋ねて来られる。
おそらく、どこの家もそんな経験があるだろう。

僕は仕事で不在だが、家族はその方たちから冊子を受け取る。
んで、彼らが帰った後に、それをゴミ箱にすてている。

僕の家族だけなのか、あるいはよその家でもそうされているか知らないが、
一通り目を通せばまだ良いものを、冊子の捨てられ方は非常に無惨なものだ。
手渡されただけで、その役目を終えているかのようだ。

んで、僕はそれをゴミ箱から拾って頁をめくったりする。
その捨てられ方がなんとも忍びないので、一応中身には目を通してみることにしているのだ。

そういった冊子には聖書の解説だとか、生活の仕方だとかが書いてある。

こういった宗教で言う「神」の存在というものを、僕は感じたことが無い。

これは僕の宗教性によるものだと思う。
仕方が無い。

いいかげんなもんで、森羅万象、八百万(やおよろず)の神に対する、畏敬の念や感謝は感じることしばしばだ。
それは、仏教的に言って「縁」といったりするのかも知れないが・・・。

唯一の絶対的神・・・なものを感じたことは、これまで一度も無いし、みじんもない。

この冊子を眺めていても、まったく何も感じない。
むしろ、いかがわしく感じたりする。

「神」につきまとうイメージが悪い。

「神」=「完全性」

そんな感じなのだが、これは「存在し得ない」ということだと思う。

『体系を体系たらしめるために要請される意味の不在を否定する記号なんだよー そのアナログなのが神で、デジタルなのがゼロ。どうかな??』(Tachikoma)

このようにタチコマが「0」と「神」のアナロジーを仮定しているようにだ。

「ひとつの系が完全であることを、その系において証明することはできない。」
1931年にクルト・ゲーデルが「不完全性定理」を発表している。また、量子論においても「すべての物理現象に不完全性がある」とされている。(苫米地 英人「釈迦さまの脳科学」より引用)

「信ずる者は救われる」という
これは、『予定説』といって、ジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教の神学思想。
神の救済に与る者と、滅びに至る者が「予め」決められているとするものだ。
「あらかじめ救われる者とそうでない者は予定されている。救われるものは、信じる運命にある。」ということになる。
あなたが信じたということは、救われる側の人間だということだ。

親鸞の阿弥陀仏による浄土信仰と似ている。

で、
僕は未だに、その信じる側ではない方にいるわけだ。
つまり、救われない側なんだな。

でも、ゴミ箱の冊子は救っているぞ。

いずれ僕が地獄に堕ちた時には、極楽の蓮池のほとりからお釈迦様が新興宗教の冊子を何枚かたらしてくれるんだろうな。

そうなったら
カンダタチックに昇ってやるぜ!

コメント

  1. korokoro より:

    Unknown
    他の人を蹴落として、崩れて落ちないように・・・な~んて・・・。

    昔勤めてたパート先に、宗教をされてる人がいて。その人には、「神に頼らず生きてるって、なんて強い人なんだろう、と思う」と言われました。

    色々悩んだ挙句、宗教の道に入ったみたい。
    人それぞれですね。
    その人には仕事でいつも助けてもらってた。
    ありがたい人でした。

  2. kazz より:

    >korokoroさん
    僕はカンダタタイプの人間です。きっと(笑)。

    どのような宗教も、ほんと人それぞれですよね。

    神に頼らず生きるのを強いと感じる人もいるでしょうし、逆に神に頼って生きていけるのを強いと思う人もいるでしょう。まったく何にも思わない人もいるでしょうし、本当に人それぞれですね。

    ありがたい人
    そう思えることも、ある種の宗教心なのかもしれませんしね。

    そう思うと、宗教は、教祖・教義を必ずしも必要としないのかもしれませんね。

    はぁ
    神降臨したらどうしよう・・・

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